わからぬと
いうことが
わかってくれば
それでよい
よくあるご質問(Q&A)
ご依頼について
人の一生の中で、何歳の前後には災いが起こりやすいので、忌み慎むとされるのが厄年で、はじめて言われ出したのは、平安時代に遡るそうです。皆さんが「節分」として豆まきをする行事も、もとは「追儺(ついな)」という宮中の厄除け行事からきたものです。厄年にあたる年は、体力的にも、また家庭や社会環境が転機を迎えやすいタイミングであるとして、厄払いの祈祷を勧めるお寺や神社もあります。
浄土真宗に「厄」という考え方はありません。ですから、厄年に注意したり、厄除けをしたりする必要もありません。また、日常で申しあげれば、いい日、悪い日、いい方角、悪い方角などという考え方もありません。
よい日になるか悪い日になるかは、すべて自分自身の行い次第です。たとえば重い病気になったとします。そんなときは、「このままずっと続いていくと思っていた日常が終わるかもしれない」、「健康には人一倍気をつかってきたはずなのに、どうして」などと自問自答してしまうのではないでしょうか。そして、「今年は厄年だった」と思い当たり、厄年だから病気になったのだと考えてしまうこともあるでしょう。しかし、病気や死に向き合うことではじめて見えてくることもあります。たとえば、病気で余命宣告された方の中には、その後、世界が変わって見えたという方がいらっしゃいます。ありふれた日常や、あらゆるものが当たり前ではないことに気づき、きらきらと輝いて見えたといいます。この方にとっては、病気は悪いことだけとはいえないのではないでしょうか。
阿弥陀さまは、すべてのものがことごとく金色に輝かないのであれば、私はさとりを開くことはない(「悉皆金(しっかいこんじき)色の願」)と誓われ、さとりを成就されました。すべてのものが、あるがままにそのままで金色に輝いて見えるのです。「厄年」というような、この年は災いが多く暗く希望が持てない、ということはあり得ないのです。私たちの価値判断で、阿弥陀さまが見るその人の輝きが左右されることはありません。あるとしたら、それは私たちの煩悩がその輝きを曇らせてしまっているということでしょう。ですから、何のご心配もありません。もし、気になるようでしたら、厄の年には、十分、精進して気をつけるように、生活を心がけてください。安心したからといって、無茶な生活をしていれば、当然、その結果は、悪い方向に向かってしまうことでしょう。
浄土真宗の教えは、いつでも、どこでも、どんなときでも、仏様は私たちを見守り続けてくださる教えです。ですから、そのような、占いや呪い迷信などの一切から、開放される教えなのです。
「何もしなくて良いんだ」と思われた方はそのままで、「頭では分かっているけれど・・」と思った方もおられると思います。気にされるのでしたら、強制は致しません。厄払いをしましょう。
仏教がお伝えしているメッセージは、
与えられた命を 感謝して ハッピーに 生きること!
ですから。
厄を気にされる方に対しても、当山では健やかな生活を願って、心を込めてお勤めさせて頂きます野で、お気軽にご相談下さい。
もちろん、皆様のご自宅へと伺わせて頂きます。
ご法要を行う場所は「お寺の本堂」だけではなく、お墓や葬祭ホール、ご自宅など様々な選択肢がございます。
ご自宅で法要を行いたいけれど、お坊さんに来て貰えるだろうか?とご心配なさらずに、気軽にご相談下さい。
はい。お問合せの際に「初めてのご依頼」とお伝えいただければ、皆さまとの不思議な巡り合わせのご縁に感謝し、宗旨宗派問わず、丁寧にご案内させていただきます。
実際に、当山をご利用された方は、いわゆる「飛び込み」で訪ねて来られた方がほとんどです。どの様に当山を探されたのかお尋ねすると、「電話帳で調べて」「インターネットで検索して」「近くを通ったので」、中には「他のお寺で断られて」など様々ございました。また、檀家や門徒になっていたけど、お寺からの要求が多くて困っているという方からのご依頼も増えています。
「お寺は敷居が高くて・・」と思われがちですが、当山には敷居は一切ございませんし、立派な本堂建物(一般的なお寺イメージ)もありません。皆さまが大切にされている仏さまを、お寺でも僧侶としてでもなく、一個人としてお参りさせて頂きたいと思っております。
一期一会のご縁を大切にして、お勤めを承りますので、お試し感覚での依頼でも構いません。一度お寺に頼むと、今後も頼まないといけないということもありません。ご法事を勤めるのにお困りの方や、長らくご法事をお勤めできていない方など、ご法事やその他、各種法要の件でお悩みのことがあれば、お気軽にご相談ください。
ご法要のご依頼については、こちら をご参照下さい。
三宝寺では ご家族が亡くなられ、これからお墓を建てられる方や、あるいはお墓の建て替え・移転などで、一時的にお遺骨の安置場所が必要となられた方、経済的な理由や時間的に尚早とお考えの方などのために、お遺骨の一時預かりを行っております。お預かりしたお遺骨は、本堂内に安置しお守りさせていただきます。
お預かりに際して、皆さまの宗教宗旨宗派は問いませんので、いつでもご相談下さい。
預骨のご依頼については、こちら をご参照下さい。
「お布施はおいくらですか?」とのご相談も非常に多いです。「お気持ちで構いません」と言われても、おそらくは、少なすぎても失礼だし、かといって多すぎると家計に響くしということだと思われます。逆に、こちらが「遠慮して言わないのだ」とも感じておられることでしょう。
ですから、当山では「皆さまにとって無理の無い範囲」で構いません。「少ないのは失礼かな?」とご心配する必要がないことを何より願っておりますし、それ以上に「ご供養に対するお気持ちが先」だと考えております。
お布施とは元々、粗末な衣服を着て托鉢に出ていた修行者に対して布を施して衣服の足しにしてほしい、というところからこのような言葉になりました。その意味合いは「喜捨(きしゃ)」といい、「喜んで捨てられるほどの想い」で差し出すものです。ご法事に対するサービスの対価として支払うものではないので、料金が決められておらず、「お気持ちで・・・」となるわけです。
また、お布施は現金でなければいけないということもありません。経典には「無財の七施」(むざいのしちせ)が説かれています。優しいまなざしと慈愛に満ちた微笑で人に接するのが「眼施」と「和顔悦色施」。優しいことばで人に接するのを「言辞施」。自分の力を人様に貸すのを「身施」。優しい心で他人に喜びを差し上げるのが「心施」。自分の座席をゆずる・ゆずりあいを「床座施」。そして住む場・心にゆとりを与える「房舎施」。以上七つの布施を言います。これは誰にでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりです。
それでも仏事を依頼するのが初めての方、お寺とあまりご縁がない方にとっては、お布施というものが何か分かりにくい部分もあるかと思います。お布施の金額に悩んで、お寺に直接お願いすることをためらうということがないよう、ご希望の方には目安となる水準(当地域の平均的なもの)をお伝えしております。
どうしてもお困りのときは、三宝寺に遠慮なさらず何時でもご相談下さい。
三宝寺では、葬儀や法要等のお布施の領収書をお出しすることができます。ご自宅へ郵送もできますので、必要な方はお申し付け下さい。なお、領収書の印紙は宗教法人のため非課税となり省略されます。(印紙税法第5条別表第1条17号文章)
家族の一員として共に過ごしてこられたペットの死は、本当に悲しいものですね。その無垢な瞳や愛くるしいしぐさが思い出される度、涙されるのはあなただけではありません。人と同じとまではいきませんが、愛しいペットのお葬式やお別れの儀式は、ペットロスからの立ち直りの、第一歩とも言われています。
お釈迦様は「一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しうぶっしょう)」と説かれました。これは「仏さまになる資格は衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに対して、仏さまとなる資格がある」と言うものです。
お釈迦様が亡くなられたとき、森の動物がみんなお別れに集まりました。だから、動物であっても、その命を終えたときは、人と変わらぬ事なくお参りさせていただきたいと思っています。
いつでもお気軽に三宝寺へご相談下さい。
ご法要のご依頼については、こちら をご参照下さい。
気にされない方は、通常の可燃・不燃ゴミとして、大きいものは粗大ゴミとして出される方もいるそうです。ですが、大抵の方は気になりますよね。
ですので、ご自身で処分しにくい不要品(ご仏壇・仏具・お位牌・過去帳・法名軸・お写真・お人形・お手紙・大切な物・その他手放しがたい物など)は代わりに三宝寺がお引き取りいたします。
本来、浄土真宗では物に霊魂が宿ると言う概念はありませんが、大切なものには亡き人との思い出や他人の情念を感じ、容易には捨てられないのが人情かもしれません。それらのものとのご縁を偲びながら、本堂で感謝申し上げつつ、お勤めをした後、お焚き上げいたします。
なお、あまり大きな物(一間仏壇や半間仏壇など)や不燃物は、お引き取りできない場合もありますので、一度ご相談下さい。
三宝寺では、地域的に7月盆8月盆が混在しているため、お盆は7月1日~8月31日の期間をお盆参りに充てております。この期間であれば、いつでもご依頼頂ければお参りに伺わせて頂きます。ただし、一般的なお盆の期間「7月13日~16日」「8月13日~16日」は、お参りが特に集中しておりますので、ご希望に沿えない場合もございますので、その際は調整させていただきます。
ご希望の方は、三宝寺までご連絡ください。
ご法要のご依頼については、こちら をご参照下さい。
浄土真宗に「水子」という考えはありませんので、水子供養という名前での儀式はありません。
浄土真宗では、「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。」と阿弥陀如来は立場を関係なしに全てのものを救うと説く宗派です。お腹の子や幼い子のいのちも必ず救い出し極楽浄土に往生させてくれます。
住職である私の仏法聴聞の始まりですが、私が幼い頃に兄弟が還浄し、その葬儀を私自身が執行したことが起点となっています。
ですから、三宝寺では「水子」と限定せず、尊い仏さまの1人としてお迎えし、一般の法要と同様にお勤めさせていただきますので、いつでもご相談下さい。
お布施の受け渡しは法要前・法要後どのタイミングでも構いません。
ですが、法要後はほっと一安心される方が多いと思いますので、お忘れになるケースもありますから、ご心配でしたら法要前をお薦めします。
三宝寺は建立当初より檀家制を設けておりませんので、檀家になるという手続きはありません。
お寺はこれまで、江戸時代につくられた檀家制度の上になりたってきました。以前は、地域の中で檀家組織はそれなりの役割を果たしていましたが、現代では、檀家組織そのものが社会に合わない存在になっています。お寺の檀家になるということは、心理的にも、金銭的にも大きな負担となっているのが現実です。
自宅や職場以外の第3のスペース、心の拠り所としての空間が、これからのお寺の在り方だと思っております。
ですから、一期一会のご縁を大切にしておりますので、葬儀・法事・各種法要の1回のみのお付き合いでも構いません。
また当寺院からご寄付やご寄進などをお願いすることも一切ありませんのでご安心下さい。
ご家族のご了解があれば大丈夫です。お参りさせていただきます。
お釈迦様が説かれた仏教が、大陸を渡り日本に伝えられる過程で宗派に分かれたものなのですから、元は同じ教えです。大切にする経典等により違いが生まれてきました。
仏さまを大切にされたいと願うお心は、どの宗派にとらわれることのない純粋なものです。
真宗大谷派の作法によるお参りとなりますので、その点ご理解頂けましたら、遠慮なくご相談下さい。
墓地について
卒塔婆は故人や先祖の回向のために立てられますが、浄土真宗では卒塔婆を使いません。卒塔婆は亡くなったの人の追善供養のために使われていますが、浄土真宗ではこの追善供養という考えがないからです。
追善供養とは、亡くなった人があちらの世界で仏になれるように、この世に生きる人たちが供養することですが、浄土真宗の教えでは、亡くなった人は阿弥陀如来のおられる極楽浄土で仏さまになることが既に約束されているため、私たちが後からお願いする必要がないのです。
お供え物はお参り後、お家に持ち帰り頂き、みなさんで食されて下さい。こちらからお供えは、そのまま仏さまから私たちへのお供えとなりますから、それを「おさがり」と呼びます。
三宝寺のある地域は、自然が豊かな田園地帯ですので、お供え物をそのままにしておきますと、皆さまの代わりに様々な動物たちが仏さまのおさがりを頂きに参ります。お墓が汚れる(他家の墓所も)原因にもなりますのでご注意下さい。
三宝寺は建立当初より檀家制を設けておりませんので、檀家になるという手続きはありません。永代供養墓への納骨法要1回のみのお付き合いでも構いません。納骨後は、当山が責任をもってご供養させて頂きます。
また当寺院からご寄付やご寄進などをお願いすることも一切ありませんのでご安心下さい。
条件については、一切ありません。宗教宗旨宗派は問いませんので、どなたでも入ることができます。
ただし、三宝寺の供養の形は真宗大谷派の作法に則り行われます。
また、納骨方法については、基本的に三宝寺の出身である新潟県の一般的な納骨方法(散骨式)で行っております。
お墓を建てたら、まず、建碑慶讚のご法要をしましょう。浄土真宗では、一般的に言われる「魂入れ」は行いません。俗的に言えば、「新居を建てたお祝い」のご法要が「建碑慶讚法要」です。
これから、お墓をお守りしていくわけですから、きちんとけじめをつけておくべきです。
全く決まっておりませんので、ご安心下さい。
墓相というものをお聞きします。お墓の方角や形などが悪いと家に不幸が起こるなどというのは、仏教にとっては全くの迷信です。ただ、その影響によるものか民間霊園などでは向きによって永代使用料の料金差が発生しておりますが・・。
そもそもお墓は、亡くなった人を敬って作られたもの。それに制約があるはずはありません。もしあるとすれば、仏教以外の教えですね。
実は、親鸞聖人の教えからするとその通りです。 親鸞聖人は、亡くなられた方を敬うという生き方ではなく、生きた人が、亡くなられた方をご縁として仏法に出会うことを最善にしておられました。
ですから、親鸞聖人の教えに忠実であれば、お墓はいらないことになります。本山の真宗本廟へ分骨を納めるというしきたりは、そのいわれから来ているものです。
墓地の相続に関しては、皆さまがお考えになるより他にさまざまな方法があります。まずはお気兼ねなく三宝寺にご相談ください。
永代にわたり墓地を使用する「権利(墓地使用権)」を得るための冥加金のことです。土地の売買ではありませんので、その墓地を他人に売ったりすることはできません。そのため、使わなくなったからといっても返金することはありませんので、ご承知おきください。
「永代」という解釈は霊園によって様々ですが、大きく分けて2つの意味があります。1つは「その家(管理者)が続く限り」と言うそのままの意味です。2つは「管理者が存命している限り」で一代に限ると言う意味です。多くは前者の意味としてもちいられています。
お墓の建立の時期についてのご相談も多くあります。49日までがよいとか、せめて3回忌までにとか、色々と言われることもあるでしょうが、お墓の建立はいつでも構いません。
何十年もお参りする大切なお墓ですから、慌てずにいいお墓を建てられることが大切です。
はい、どなたでもお求めになれます。
三宝寺の墓地「三宝寺墓苑」は、真宗のご門徒はもちろん、仏教徒の方であれば、となたでもお求めになれます。また、三宝寺は檀家制度を必要としないお寺ですので、皆さまに対して寄付金は求めませんし、檀家を強要することもありませんので、ご安心下さい。
結論としては、構いません。なお、ご生前に建てたお墓のことを「寿陵(じゅりょう)」と言います。
ご生前にお墓を建立された方の中には、将来自分が入るのだからその自分にお参りしてる方もおられます。きっと、その方はそのいただいた「いのち」に手を合わせているのでしょう。
ご法事について
「法事をいつまで続けるのか?」というご質問も、現在では非常に多くなって参りました。
年忌法要の区切り、ご法事をいつまで続けるかについては、地域の慣習や宗派によって違いがございます。
本来、最後のご法事の事を「弔い上げ(とむらいあげ)」と呼び、弔い上げで法要を修了すると、故人は『ご先祖さま』という扱いになり、他のご先祖さまとまとめて敬う対象となります。一般的には、「三十三回忌」を弔い上げとしている宗派が多くあります。
元々、七回忌以降は日本で作られたものであるため、仏教上の教えの中には「弔い上げ」のタイミングに明確な決まりはございません。ご法事を営む側の人間的事情も考慮され、弔い上げのタイミングとして最も選ばれる傾向にあったのが三十三回忌であったのでしょう。
現在では、
- 故人を偲ぶ親族や知人も高齢となり、法事に参加できない
- 故人を知る親族や人が亡くなっている
- 親族が揃って集まれる機会が作れない
と、上記の様に事情も考慮されることから、「七回忌」「十三回忌」「十七回忌」辺りで弔い上げとされる傾向が増えつつあります。
「いつまで行うか」については、『宗派』や故人の『ご家族様の考え』『代々の習わし』、檀家に入っている場合は『菩提寺の考え』なども、判断をする上で、しっかり検討すべき点と言えましょう。
尚、浄土真宗には「弔い上げ」の考え方はございません。
宗祖親鸞聖人の御命日を報恩講として勤めるように、私たちのご法事もまた報恩の集いであり、私たちの勝手な都合で「ここでおしまい」という打ち切りをすることではありません。そもそもご法事は「いつまで勤めなければならない」とか「ここでおしまい」などとそういうことを考えるものではないのです。その時になって、「あぁ、もうお父さんの二十三回忌か」と、その時その時で亡き方を偲ぶご縁です。
ただ、実際問題として、上記の様に各家庭の事情は様々ですので、年忌法要はできる範囲で勤めるのがよいのですが、ご法要というと必ず親戚を集めなくてはならないということはありませんので、身内の者だけでも法事を勤めることは大切なことと感じております。
中陰忌日表をお寺さんから頂いたのだと思われますが、初めて目にしますと混乱してしまいますね。
二七日から七七日は、初七日から始まる中陰法要の「御法要名」となります。
初七日(しょなのか) 命終から七日目
二七日(ふたなのか) 命終から十四日目
三七日(みなのか) 命終から二十一日目
四七日(よなのか) 命終から二十八日目
五七日(いつなのか) 命終から三十五日目
六七日(むなのか) 命終から四十二日目
七七日(なななのか) 命終から四十九日目
単純に「2×7日」などと解釈頂ければ、分かりやすいと思います。
一般的には、「四十九日で亡き人は成仏する」と言われています。もともと平安時代以降、中国から伝わった『十王経』という死後の旅路の物語が世間にひろまりました。いわゆる三途の川や閻魔大王が出てくるお話です。 この世とあの世の境目を「中陰(ちゅういん)」といい、初七日(しょなのか)・二七日(ふたなのか)・三七日(みなのか)・四七日(よなのか)・五七日(いつなのか)・六七日(むなのか)・七七日(なななのか)と七日ごとに、7人の裁判官が死者の生前の行いを裁判にかけて、死後の生まれるべき世界を定めるという構成です。更に、中陰の7回に加えて、100ヶ日、一周忌、三回忌(没後2年目)の3つの裁判を加えて十王となります。
俗的に言えば、第一審の地方裁判所が初七日、以降四十九日までが高等裁判所から最高裁判所での審議となります。そして四十九日の最高裁結審では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道のいずれかの行き先が決定するのです。つまり、六道のどこかということですから、成仏できるとは限りません。更に、その後の100ヶ日、一周忌、三回忌で再審請求を行い、成仏を目指すことができると説かれています。
他宗においては、七日ごとに残された家族や縁者が集まって法要をつとめ、いわば裁判官に対して、六道の天上(仏の世界)を選んでもらえるよう、情状酌量の嘆願をするというような意味合いで七日参りが勤められてきています。このような考え方を「追善(ついぜん)供養(くよう)」(死者の冥福を祈ること)といいます。ちなみに五七日(35日)の担当の裁判官が閻魔大王です。
しかし真宗においては、「仏弟子は死後に迷うということはなく、即時に阿弥陀如来の極楽浄土へ往生する」という考え方なので、追善供養の必要はありません。朝から晩まで罪悪の種をまく私を救うのに、裁判に臨んだら到底 勝ち目はありません。それならば、裁判の前に私を救いとってしまおう。自ら地獄へ堕ちるしかない私の罪や煩悩をそのまま、逆に浄土へ生まれるエネルギーに転換させるという、あたかも逆転サヨナラ満塁ホームランのようなものです。
では、なぜ七日参りを行うのかというと、大切な方を亡くされたということは、そのこと自体がとても大きなショックで、大きな日常の変化をもたらします。中陰の期間は、亡き大切な方を近親者と共に偲び、励まし合いつつ、亡き人からの「命にはかぎりがある。かけがえのないあなたの人生を、どうか悔いのないようにしっかり生きてください」という亡き人からの願いとして受け取っていくための大切な時間です。供養ということが、亡き人のために何かできることをさせていただくという意味だとするならば、亡き人の死を通して、私自身が生きていく上で大切なことを教えられ、新たな生き方が始まっていくということが、亡き人の願いであり、本当に喜んでくれることではないでしょうか。
お通夜はもともと亡くなった方のご遺体を静かに安置して故人を偲ぶ時間のことを言いました。夜通し灯りを絶やさぬようにしたので「通夜」と呼ばれます。電気のない時代は蝋燭や行灯(あんどん)の油を切らさないように見ていなければなりませんでした。そして、お知らせを受けた方が弔問に来てお別れをします。翌日、葬式を執り行い、読経の後に火葬(昔は土葬)します。近年は両方ともセレモニーホールなどで行われることが多くなってきましたが、お通夜が「お別れの一晩」であり、葬式がお骨になられるにあたっての「お別れの儀式」であることに変わりはありません。
最近とても多いご質問です。子供や孫まで負担をかけたくない、遠方に住んでいて維持できない等、様々なご事情でお墓もお仏壇も持たれない方は年々増えております。その場合の一例として、各種法要を三宝寺の本堂にて執り行うことをご提案しております。
皆様のご事情やご状況をお聴きし、より良い形となるようご提案いたしますので、気軽にご相談下さい。
一緒に法要をされる方は多くいます。
厳格に言えば別々にするべきなのでしょうが、皆様のご都合もあり、一緒にされるのも1つの有り方だと思いますので、構いません。
「仏教では」という決まりは特にないようですが、昔は皆さん平等に1月1日から年齢を重ねるという意味として、数え年で表していました。しかし、現在は満年齢で数えることが主流ですので、三宝寺の儀式では数え年を表記をしていますが、もちろんご希望など伺いましたら満年齢で表記もします。
数え年は、「その年迎える満年齢+1歳」で数えるため、お誕生日がまだの方は、その年の数え分「+1」が加えられるため、「満年齢+2歳」となってしまいます。特に女性の方には、「いつまでもそのままの貴女で」との思いで、満年齢を事前にお薦めしております。
ご参考として、『年齢の称え方に関する法律』(昭和25年1月1日施行)と言う法律上では、満年齢で年齢を数えるよう常に心がけよと明記されています。それ以前の法律『年齢計算に関する法律』(明治35年12月22日施行)でも、「年齢は出生の日より之を起算す」と明記されています。更に前の『年齢計算方を定む』法律(明治6年太政官布告)では、新暦は満年齢を基本とし、旧暦は「1干支をもって1年」の数え年で数えても良いとされていました。
基本的には49日のご法要をお勤めした後に初めてくるお盆が新盆(初盆)になります。また、7月、8月のどちらのお盆でお勤めするかは、それぞれのお家によって選択して頂いて構いません。
新盆(初盆)は亡くなられた方を偲ぶ大切なご縁ですので、ぜひお勤め下さい。
お包みの表書きや、水引などについてご紹介します。「こうでなければダメ」というものではありません。御布施やお供えはお気持ちですので、本来はこのように、マナーや決まりごととして紹介するべきものではありません。しかし気にされる方が非常に多くよく尋ねられるため、皆さんの一助になればと思い、また、これも仏事と向き合うひとつのご縁と考え、一例としてご紹介します。
お寺へお渡しするものについては、「御布施」または「御法礼」と書きます。また、浄土真宗の法事は「不祝儀」ではありません。亡き方をご縁として仏さまの教え・願いを聞かせて頂く「有り難いご縁」です。ですので紅白の水引でも、それもふさわしいといえます。ご注意頂く点としては、お寺のサービスによる対価のお支払いではございませんので、「御法要料」や「御経料」などはお避け下さい。
ご葬儀やご法要に参加され、施主さまにお渡しする場合、お供えものとして金銭を包む意味で、「御供」と書きます。他にも「御仏前」「御花代」「御香資」などがあります。それぞれ、「仏さまの御前にお供えします」、「お花をお供えする代わりとして」という意味合いとなります。「資」とは「元となるもの」という意味のため、「お香をお供えする元手」つまり「お香の代わりとして」という意味合いです。御香典も同義です。
浄土真宗では、「御霊前」は全く使いません。浄土真宗は仏教の縁起の教えに従い、霊魂不滅や輪廻転生の考えを採っていません。全ての方はご臨終の際、仏さまとして迎えられるお約束がされているからです。ただ浄土真宗の宗派以外では49日まで「御霊前」を使うことがあります。
何と書けばよいか迷われた場合は、「御供」が最も万能な言い回しかと思います。
関東の骨壺のサイズについて、西の方が見ると驚かれることがよくあります。
実際に、骨壺の大きさの種類は「2寸・2.3寸・3寸・4寸・5寸・6寸・7寸・8寸・尺寸」があり、全部で「9種類」もあります。この「寸(すん)」というのは長さを表す単位で「1寸=約3.3cm」です。尺寸(直径31.5cm、高さ34.0cm)は、お墓のカロートスペースがいっぱいになって複数人の遺骨を1つの骨壷にまとめて入れたい時など複数人用として使われます。
骨壷の一般的なサイズは7寸(直径21.7cm、高さ25.5cm)です。これは「総収骨」の場合です。総収骨とは遺骨を全て骨壷の中に収め、さらに収骨台に残った遺灰まで全部収める方法です。
日本では地域によって骨壷のサイズに違いがあります。ざっくりと分けると、東日本は7寸、西日本は3~5寸です。では、なぜこのような差が生まれるのでしょうか。それは、総収骨をするかしないかという違いです。総収骨をしない場合は「部分収骨」といって主要な遺骨(足・腰・胸・腕・喉仏・頭)のみを収めるのです。総収骨に比べて収める遺骨の量が少ないので骨壷サイズが小さいものになります。つまり、総収骨の習慣を持つ東日本は7寸、部分収骨の習慣を持つ西日本は3~5寸と骨壷サイズに違いが出てくるのです。
大まかに東日本と西日本に分けましたが、西日本でも総収骨の習慣を持つ地域もあり、九州・沖縄がその例です。また、面白いことに四国でも徳島は部分収骨、香川・愛媛・高知は総収骨の習慣があるそうです。
参考までに、当山出身の新潟県は、骨壺自体がありません。骨壺を納める木箱に直接お遺骨を入れ、お墓に納骨する際に散骨する習慣がございます。
一般的に「49日には納骨を」と言われることが多いですね。それは単純に、49日が一番初めにくる仏事の大きな「節目」でもあるので、その時に納骨される方が多いだけであって、仏教上特に決められてはおりません。ご法事など親族の皆さんが集まる機会にされる方も多いです。
ご参考までに当山の地域では、ご葬儀後その日の内に納骨するしきたりがございます。これは、土葬による葬送のしきたりでしたが、火葬が主流となった現在、形式だけが残ったものです。
これから代々お守りする大切な場所を決めるわけですから、焦らずじっくりとお考え頂ければと思います。
地域によって違いもございますので、特に決まりはありませんが、最近は少人数の身内だけの場合は平服でお参りされる方が増えております。
三宝寺で法要を執り行う場合も、平服でお越し頂いても構いません。ただご親戚との関係上、喪服を着られた方が望ましい場合もありますので、各家のご判断にお任せいたします。
ご参考までに、喪服を着る期間の地域の違いですが、「49日まで」「百か日まで」「一周忌まで」「三回忌まで」などとバラバラです。一番短い地域は「お通夜まで」とする場所もあります。
後になってもかまいません。仏事のご縁に合われる方々の都合がいい日に変更されてもかまいません。法事のご縁にあっていただくことが、一番大切です。
一般に「法事を早く行うのはいいが、遅らせてはいけない」というのは、うっかりしてご法事を行うのが遅れないよう、早めに考えるように戒めとして、事前注意として昔の方々がおっしゃったことです。
ご法事の日程を少々ずらしたくらいで怒るような心の狭い仏さまは、仏さまとはいいません。仏さまのお心は、わたしたちにははかり知ることができないほど広大で深いものです。
皆さまがご法事の日をこの日がよいとお決めになられたのは、仏さまが「この日にお集まりいたしましょう」と、にこやかに皆さまへ伝えてくださったからだと、私は感じております。
年忌法要は、亡くなって1年後にお勤めするのが一周忌、2年後が三回忌、その後は七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、四十三回忌、四十七回忌、五十回忌、 以降50年毎に年忌法要をお勤めします。(地域によっては、二十五回忌を勤めるところもあります。)
そもそも、回忌は「ご往生された日を1回目として、〇回目となる祥月命日」にお勤めされますので「回忌」と呼びます。そのため、年数で数える「年忌」とズレが出てくるのです。回忌の数え方は、三回忌以降「A回忌は亡くなってから(A-1)年目」と覚えておくのが一番分かりやすいでしょう。
当サイト内に、年回忌表を掲載しておりますので、ご参考にしてください。
四十九日の法要が三カ月にまたがると、「三月(みつき)」が「見に着く」を連想させるため、忌み嫌う地方があります。これは実にナンセンスなことで、月の始めに亡くなれば、中陰は2カ月で終わりますが、十日以後であれば、その人の中陰はどうしても3カ月にまたがることは決まったことです。これは語呂あわせによる忌み言葉であって、まったく意味のない作り話(笑い話)です。
しかしなぜそのような忌み言葉が用いられるようになったのでしょうか。
「忌み言葉」を辞書で調べてみると、『信仰上の理由や、特定の職業・場面で使用を避ける言葉。不吉な意味の語を連想させる言葉、特に死や病気に関するものが多い。』とあります。死を連想させる言葉には、数字の四があります。ほとんどの病院には四、十四号室というように四のつく病室はありません。
忌み言葉は、少なくとも千年以上も前から、神事において用いられていたといわれます。特定の神社で伝統的な神事をおこなうとき、例えば仏教用語などは言い替えて表現するように定められていたことが、文献にみえるそうです。古来、忌み言葉は表だって言いはばかれる言葉を別の表現に替える工夫だったのです。
東本願寺「お内仏のお給仕と心得」
門徒もの知り帳(上)より
仏事の作法について
教えの中でいくつかの決まり事はございますが、皆さまがご自由にお供えしていただければ大いに結構です。そのお気持ちを大切にされて下さい。
仏さまへのお供え物を用意するというのは、作法、つまり決まり事なのだと受け止められていると思います。それも、必ずしも誤りではないかもしれません。ただ、作法というのは、まず何かしらの気持ちや考えがあって、それを目に見える形として表わすために生み出された表現手段であると考えられます。作法をただ形ばかりのしきたりととらえるのではなく、そこにある意味(仏さまへの感謝と敬いの心を表わす行為)を味わうことができるならば、ご仏壇にさまざまな供物を供えるという行為も、より豊かな意味をもつものとなりましょう。
お供えは、そのまま仏さまのものとなり、その後「仏さまからのいただきもの」(お下がり)となります。もちろん、単に物としてのお下がりばかりではありません。むしろ私たちは、形として見える物をお下がりとしていただきながら、今日私が生かされているということも、仏さまからのいただきものであると感じさせていただくことが、大切だと思っています。
浄土真宗の教えでは、仏さまのおられるお浄土には「八功徳水」(はっくどくすい)という清らかな水がふんだんに湧き出しており、のどが渇くことがないため、お供えする必要がないのです。「仏様が、のどが渇かれるでしょう?」と心配される方がおられるかもしれませんが、お仏壇に茶器やコップに水やお茶を入れてお供えしないのです。
作法として、飲み水としてではなく、八功徳水の象徴として華瓶(けびょう)に水を入れ、樒(しきみ)か、青木を挿して、仏さまの恵みを敬い感謝する香水としてお供えします。
現代は食生活も多様化しています。
まごころのこもったお供え物を、仏さまやご先祖さまがお嫌いなはずはありません。ご家庭がパン食ならば、ご飯の代わりにパンをお供えなさって大いに結構です。ご飯にせよパンにせよ、仏さまへの感謝の心をもってお供えすることが大切です。
みなさまの心の拠り所となるご仏壇を安置することは大変良いことです。
以前は、分家として新たに居を構える際に、必ずご仏壇を安置するしきたりもございました。「仏壇を購入すると不幸が起こる」などという根拠のない迷信にはとらわれないようにしましょう。
新しく仏壇を購入した方の多くが、仏壇の設置場所や向きについて悩まれているようです。
しかしながら、設置場所や向きについて絶対にこうしてはならない、こうしなければならないという決まりはありません。ですが、古くからのしきたりを見ていきますと、仏壇を置く向きには、大きく分けて三つの考え方もあります。
1,南面北座説・・仏壇の背を北にして南向きに置きます。直射日光が当たらず、南からの風も通って湿気を防ぐことができるので保存上でも最適の条件といえます。
2,本山中心説・・仏壇の前で合掌して拝む方向の延長線上に家の宗派の本山がある位置に置きます。
3,西方浄土説・・阿弥陀如来の西方極楽浄土を礼拝するために西を背にして東向きに仏壇を置きます。
御本尊を安置してあるお仏壇は、ご家族さまの心のよりどころですから、ご家族さまがそろってお参りしやすい場所(毎日お手を合わせたくなる場所)に安置することが一番大切です。実際に、いつも家族の存在を感じられるリビングに置く方も増えています。
設置の際に配慮すべき点として、「風通しの良い場所に」「見下ろすことの無いように少し高めに」を心がけて下さい。
真宗では『正信念仏偈(正信偈)』を朝晩お勤めすることを門徒の生活として勧めてきました。正信偈は親鸞聖人がその著書である『教行信証』の中に記されたもので、お釈迦様をはじめとして仏教の伝統を保ってこられた7人の高僧により、自らのもとに仏法が届いたことを慶びうたったものです。
皆さまのご自宅のお内仏の前では、『正信偈』を含む「同朋奉賛」をお勤めいたしましょう。同朋奉讃というのは、『正信偈』に続けて、皆が一緒に唱和できるよう節回しを簡略にした念仏・和讃・回向を勤めることをいいます。
勤行本は、『真宗大谷派勤行集(通称:赤本)』をお使い下さい。なお、勤行本は三宝寺にも置いてあります。いつでもお渡し出来ますので、気軽にご連絡下さい。
浄土真宗では、精霊棚を用意したり、きゅうりやなすで牛や馬の人形を作ったりする必要はありません。普通にお仏壇を綺麗にして花などお供え物でお飾りしていただければ結構です。また、お仏壇を閉めたりせずに、しっかり開けておいてください。
そもそも、死者が行く先とされる死後の世界「冥界(冥土)」での幸福を冥福と言います。
通夜や葬儀におけるお悔やみの言葉として「ご冥福をお祈りいたします」が多く用いられますが、浄土真宗では「冥福を祈る」ということはしません。これは亡くなった人を「仏さま(既に成仏した方)」と見るためで、冥土の世界で過ごすことがそもそも無いと言うことです。
浄土真宗でのお悔やみの言葉としては、「謹んで哀悼の意を表します」や「ご逝去を悼み、慎んでお悔やみ申し上げます」などがふさわしい表現と言えるでしょう。
浄土真宗以外でも、冥福を祈らない宗教もあります。
神道は「故人は家の守り神になる」と考えられていることから、死後の世界である冥土と言う思想は相応しくありません。またキリスト教のプロテスタントでも、「死後、誰もが神の世界へ行くことができる」とされているため、神道同様に相応しくありません。そもそもキリスト教のご葬儀ではお悔やみの言葉自体を使いません。
一般的にお焼香の時など、数回お鈴を打ってからお手を合わせてお参りされている方が多いですね。
真宗大谷派の作法として、鈴は御本尊の前にて勤行(お勤め)の始まり・中間・終わりの合図として打つものです。
むやみに打つものではなく、ご自宅のお内仏(仏壇)でお勤めをする際に所定の箇所で鈴を打つことが基本です。
もし、自宅のお内仏に手を合わせる際に鈴を打つ習慣があるのでしたら「南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏申しましょう。
お仏壇には、いわれもなき迷信や俗信がつきものです。
例えば、次男・三男が仏壇を持つと「先祖が行き迷う」だとか、なんでもないときにお仏壇をむかえると、「新仏が出る」という俗説です。
これらの俗説を通じて言えることは、お仏壇に対する基本的な誤解でしょう。お仏壇は死者や先祖の入れ物ではありません。いうまでもなく、お仏壇は御本尊・阿弥陀如来のお館(やかた)です。真宗の門徒としての日常の心のよりどころです。
お仏壇は次男・三男の家庭にも必要です。家族の心が一つになることのできる場所、それがお仏壇だからです。
次男・三男が新居をかまえるときに、一家の「心の生活」の中心であるお仏壇を贈る親が増えてきているのは、大変喜ばしいことです。
※真宗ではお仏壇のことを「お内仏(おないぶつ)」といただきます。
門徒もの知り帳(上)より
お勤め前には土香炉(どごうろ)に燃香(ねんこう)をします。線香を香炉の大きさに応じて適宜に折り、火のついた方を左にして、灰の上に置いて下さい。立てることはしません。
東本願寺「お内仏のお給仕と心得」より
一輪念珠 (親珠は下) | 二輪念珠 (親珠は親指の所ではさみ、 房は左側前よりにたらす) |
※念珠は左手に持ち、合掌のとき両手におかけください
「真宗大谷派お内仏のお荘厳」より
「清め塩」は、死を穢(けが)れと見なし、死を忌(い)み嫌(きら)う習慣から生まれたものです。それは、必ず死すべき身であるにもかかわらず、自分だけは死から逃れたいという考えによるものです。本来、死に出遇うことは、私も必ず死んでいく身であるということを自覚する場でもあります。真宗では、死を穢れとすることはありません。「清め塩」は、亡き人のみならず自らをも冒涜(ぼうとく)することに他なりません。したがって、「清め塩」は必要ありません。
「真宗大谷派お内仏のお荘厳」より
それでも、ご参列した際に頂くことがあるかと思います。断固としてお断りするのも、軋轢を生むだけになりますので、頂いたものは「清め塩」として使うのでは無く、別の用途に使うよう柔軟に考えてみましょう。
ちなみに、当山でも他宗の法事に参列する時に清め塩を頂きます。頂いた塩は、境内地の害虫駆除をする際などに、丁度良い分量なので逆に重宝しておりますよ。
①仏前に進み、ご本尊を仰ぎ見ます。※この時は合掌はしなくても結構です。 | ②焼香は二回です。香盒(お香の入れ物)から右手でお香をつまんで香炉に入れてください。 その際に、つまんだ右手を額に当てる(押しいただく)ことはしなくて結構です。 |
③入れ終わったら、乱れた香盒のお香を右手の指の平で均したあと合掌し、念仏を称えます。 | ④合掌を解き、頭礼します。(軽く頭を下げる) |
「真宗大谷派お内仏のお荘厳」より
浄土真宗について
こちらも別記の築地本願寺と同様に、多くの方からご質問がございます。
浅草の東本願寺は「浄土真宗東本願寺派」の本山となります。歴史を紐解きますと、江戸時代の明暦の大火の後、幕府の指示(「築地か浅草か好きな方を選べ」)があり、真宗大谷派が「浅草本願寺」、浄土真宗本願寺派が「築地本願寺」を建立されました。そして諸事情により、昭和56年に大谷派から離脱、昭和63年に「浄土真宗東本願寺派」として独立、平成13年に「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」の名称で文化庁より認証され現在に至ります。
浅草本願寺の離脱により、大谷派の東京別院が無くなりました。そこで平成2年、練馬区に大谷派の関東圏本部として「真宗会館」が新たに建立されました。ですから、ご質問はあながち間違いでもないですね。浅草の東本願寺は、大谷派の本山ではありませんが、かつて「東京別院」であったのです。
ちなみに、茨城県牛久市にある「牛久大仏」は、東本願寺派本山が運営されている「牛久本廟」という広大な霊園内にある巨大な阿弥陀さまです。
関東圏では、これもよくあるご質問です。
確かに、度々テレビなどで取り上げられているので、関東圏で一番有名な浄土真宗の寺院と言えば「築地本願寺」ですね。
しかし、築地本願寺は「浄土真宗本願寺派」(西本願寺やお西と呼ばれる)の東京別院となります。真宗大谷派は、練馬区にある「真宗会館」が関東圏の本部となっています。
浅草にある「東本願寺」も混同されやすいのですが、あちらは「浄土真宗東本願寺派」の本山(※別記質問でお答えしております)です。
はい。本来浄土真宗には「忌中」や「喪中」という考え方は存在しません。
親族が亡くなった時に遺族が一定期間身を慎み喪に服する期間。
死は穢れと考えられており、穢れが強い期間を「忌」と言い、穢れが薄らいだ期間を「喪」と言います。
「忌」が明けるのが亡くなってから四十九日目(満中陰) 「喪」が明けるのが一周忌というのが一般的な考え方です。その期間内は神社へのお参りや祭事、慶事に参加することを慎みます。
「忌」や「喪」という死を穢れとする概念は、「娑婆(人間)世界の命を終えるということは、極楽浄土という、還りつくところへ還らせていただく。つまり仏さまと成られる喜ばしいこと」という考え方の浄土真宗の教えには当てはまらないのです。それ故、私たちは忌や喪に服する必要がないのです。
※また本来仏教自体が死を穢れとは捉えません。神道の影響もあるのではないかと思われます。
敢えて「忌」を用いるのならば、「忌」すなわち「己の心」。死という縁を前にして、私自身の心と向き合うための期間が「忌中」と言えるかもしれません。死と向き合うために必要な時間は人それぞれです。期間を定められるものではありません。
上記の意味から、浄土真宗では喪中ハガキも用いません。ただし、こちらが浄土真宗の門徒だと先方が理解してるとは限りませんし、うちは浄土真宗だから!と頑なに教えを守り世間との軋轢を生んでも仕方ありません。一般的な常識に配慮しつつ、浄土真宗の教えからもかけ離れず、尚且つ故人の友人知人に連絡を送りたい。その時は喪中ハガキではなく「年賀欠礼ハガキ」を出しましょう。
ご参考として、現在の喪中期間とされる一年間ですが、この考え方が広まったのは昭和30年頃からです。同時に年賀欠礼ハガキも一緒に広まりました。
元々は「服忌令(ぶっきれい)」と言う法律が江戸時代に布告(昭和22年に廃止)されました。これは、故人との続柄によって忌中・喪中期間(忌は神社への参拝、家庭のまつりを遠慮する期間、喪は精神的に故人を偲ぶ期間として)が定められていた法律です。この中には、最長13ヶ月の喪はありますが、「一年間」と言う喪中期間の記述は全くないのです。ですから「昔から一年間と決まっている」とは言っても、実際は60年ぐらいの歴史しかないのです。
なお、キリスト教も浄土真宗と同様に、「死は神に召された喜ばしいこと」であるため、忌中・喪中の考え方は存在しません。
私たちの宗派を開かれた親鸞聖人のお言葉に『僧にあらず俗にあらず』というものがあります。これはお坊さんや一般の人を区別することのない、「既成の枠にとらわれない生き方」を表します。お坊さんと言えば髪を剃り、山に入って修行しているイメージが一般的と思われますが、その枠にとらわれていては世間一般の生活を送る人々の気持ちが分かりません。かと言って俗世間にドップリとつかると僧侶としての本分を見失います。ですから、髪を伸ばし家庭を持ちながらも仏教の教えを実践していく『第三の道』を歩んでいくのが浄土真宗と言えるのではないでしょうか。
仏教はもともとインドから中国を経て日本に伝わりました。日本での仏教は現在、大まかには13ほどの宗派に分けられているそうです。その中でも鎌倉時代の法然上人が開かれた浄土宗の系統は「浄土系」と言われ、浄土真宗(西本願寺・東本願寺)や時宗などがあります。それまで、経済的余裕のある貴族・修行を達成できる一部の人だけが救いの対象とされていたのに対し、法然上人は誰でも念仏一つで救われるという教えを開かれました。その教えを受け継いで、さらに「信心」を大切に、お念仏を申すことを伝えたのが親鸞聖人です。他宗のようにたくさんのお経や修行を必要としない。「信心を頂いて、ただ念仏一つで救われる」というのが浄土真宗の代表的な特徴です。
その問いにお釈迦様は「過去はすでに終わったことだし、未来はまだ来ていないもの。 まさに現在に思いをなすべきなのだ。」とお説きになられています。今この日々を精一杯生かされて生きることが大切だということです。
しかし、目的地のわからない旅ほどむなしいものはありません。浄土真宗においては、阿弥陀如来の願いによって、その時が来れば必ず私たちは阿弥陀様に救いとられて、極楽浄土に往生できるとお聞かせいただいています。
利益をうたう宗教をよくよく考えてみれば、身勝手な自分さえよければ・・・といった 欲望をかなえるものと言っても過言ではありません。
浄土真宗は「病気が治る」とか「家内安全」とか「交通安全」などをうたったご利益は一切ありません。
しかし、そのような気持ちに惑わされない生き方ができるという「ご利益」があります。
浄土真宗門徒として、心から阿弥陀様を敬い、その“み教え”に生きることを表明する儀式を「帰敬式(ききょうしき)」といいますが、この帰敬式に際して、ご門主(もんしゅ)さまより「おかみそり」を受け、いただくのが「法名」です。
いわば、仏教徒の名乗りでいただくものですから、生前にいただくべきものだと言うわけです。
現在は、各寺院でも帰敬式を行えるようになりましたので、三宝寺でも皆さまにご法名を下付することができます。ご希望の方は、いつでもご相談下さい。
お仏壇をお持ちであれば、まず御本尊(阿弥陀如来)の姿で判断します。掛け軸で絵像の御本尊の場合、放射状に伸びた後光の上の部分が6本なら東(大谷派)、8本なら西(本願寺派)です。また、蝋燭立てが亀の上に鶴が載っている形でしたら、東(大谷派)です。三宝寺はお東ですが、お東のお勤め(内容は同じですが、リズムが異なります)でよいということであれば、ご法事のお勤めを尊いご縁と感じ、喜んでさせて頂いております。
基本的には、居士、大姉などはつきません。法名は正式には「釋〇〇」と三字のものであり、その下に居士、大姉等はつきません。阿弥陀様の前に皆平等であるという教えからです。
ただし、地域的な習慣によってつけられているところもございます。三宝寺でも、基本的にはおつけしませんが、ご希望にお応えもしております。
浄土真宗がよりどころとしているお経は、「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、「仏説阿弥陀経」の三つのお経です(浄土三部経)。この中には「般若心経」は入りませんので、お唱えしておりません。浄土真宗の方がお勤めする場合には、なるべく「三誓偈」や「嘆仏偈」など(「仏説無量寿経」の中の偈文)をお勤め致しましょう。
檀家とは、古くからある言葉で本来の意味は「施す人」という意味です。この言葉が社会でよく使われ出したのは、江戸時代からで、徳川幕府によって寺院が戸籍の管理などの行政的な役割を担い、各寺に信者を檀家として登録し幕府に報告するよう命令を下したことが「檀家制度」の始まりです。ちなみに、「旦那」も「檀家」も同じ古代インドの語源「ダーナ」から来ています。
真宗では、宗祖親鸞聖人の教えを共に聞く「一門の徒」として信者を名告ることから門徒とよびます。つまり、浄土真宗の教えを信仰するすべての人は、「門徒」です。門徒=信者と言うことですね。
真宗には真宗十派といわれる10の派があり、真宗教団連合を結成しています。
それらは親鸞聖人の血縁の本願寺ゆかりの派と、親鸞聖人の高弟を中心とする門徒集団の流れをくむ派とから成り立っています。宗派の一覧をこちらに載せておきます。
真宗教団連合ホームページより
「御文」とは、蓮如上人がご門徒たちに宛てた「御手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。この「御文」の特徴は、ご門徒たちに広く公開されたことです。法座につらなった様々な人々は、蓮如上人の「御文」を受け取った人から、その内容(教え)を耳から聴いて、聖人の一流に加わっていかれました。御文はいわば、「読む」というよりも「聴く」という性格のものであったのです。
「御文」は、現在約250通が伝えられていますが、その中で、文明3年(1471年)から明応7年(1498年)にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を五冊にまとめた、『五帖御文』が最もよく知られています。 この『五帖御文』は、現在も真宗のお勤め(勤行)や法話の後に拝読され、また拝聴することが慣例となっており、特に五帖目には「白骨(はっこつ)の御文」など有名な「御文」が納められていることもあり、広く親しまれています。
真宗大谷派(東本願寺)ホームページより
「あなかしこ」とは、「恐れ多く存じます」の意で、手紙文の終わりに用いて相手に敬意を表す語。「かしこ」と同じ意味で、昔は「あなかしこ」と書きました。
大辞泉参照
「正信偈」とは、親鸞聖人が念仏の教えによって信心を得たよろこびを表現された偈(うた)です。真実の教えとしていただかれた経典(お釈迦さまの教え)のこころを開かれ、親鸞聖人のもとへ念仏の教えを伝えてくださった七人の高僧の業績がたたえられています。
正信偈のお勤めは、苦しみや悲しみの中で生きる私たちに、親鸞聖人自身がその苦しみから本当に生きるよろこびをいただかれた念仏の教えを伝えてくださる縁として大切にしたいものです。
そして「お経」とは、お釈迦さまのお説法です。お釈迦さまの説かれた言葉を、文字に記録してつたえてきたもので、普段拝読しているお経は、漢訳されたものです。
真宗では浄土三部経を拝読します。みなさんは普段からお釈迦さまの尊いお説法を聴聞しているわけです。
「真宗大谷派の葬儀」
門徒もの知り帳(上)より
戒名とは、定められた守るべき戒律を厳守していくという名告りで、戒名を授かる(受戒)というところからきています。
真宗では戒律ということがないので、戒名とは言わず、法名といいます。
法名は本来、生前に門信徒としてのあかしとしていただくものです。「死後の自分の名」としてあとあとに備えるのでなく、仏教徒たる自分の名、として日常に思い起こし、お念仏をよろこぶ生活を送っていただきたいものです。
門徒もの知り帳(上)より
その他
ご葬儀におけるお布施は相続税の計算上、「葬式費用」にあたります。そのため、お布施を支払った人が承継した相続財産の額から差し引けることができます。お布施以外にも、僧侶へのお車代(交通費)やお膳料(会食に参加しないときに包むお金代)、お土産代も控除の対象となります。
葬式費用に含まれるのは、次のような費用です。
- 葬式や葬送に際し、またはこれらの前において、火葬や埋葬、納骨をするためにかかった費用
- 遺体や遺骨の回送にかかった費用
- お通夜など、葬式の前後に生じた費用で通常葬式にかかせない費用
- 葬式にあたりお寺などに対して読経料などのお礼をした費用
- 死体の捜索または死体や遺骨の運搬にかかった費用
お葬式のときに包んだお布施やお車代、お膳料は、5の「葬式にあたりお寺などに対して読経料などのお礼をした費用」に該当します。そのため、葬式費用に含まれるのです。
一方、次のような費用は、葬式費用になりません。
- 香典返しのためにかかった費用
- 墓石や墓地の買い入れのためにかかった費用や墓地を借りるためにかかった費用
- ご葬儀後のご法事などのためにかかった費用
お葬式以外でも、初七日や四十九日、一周忌などといったご法事でもお布施やお車代、お膳料を支払うことがあります。残念ながら、ご法事で支払った分は葬式費用に含まれません。ご法事はあくまで亡くなった人の供養に過ぎず、葬る儀式ではないからです。
私も皆さんと同じように正座をすれば痺れますよ。
ただ、違う点は「慣れ」もありますが、痺れにくくすると言う技術面で、皆さんより長く座れるだけなんです。更に、「痺れていてもサッと立ち上がる技術」や「痺れていないように見える歩き方」というのもあります。当然、お坊さんの中でも、正座が得意な方・苦手な方はいます。大きなお寺さんですと、御本尊の裏手に出入り口(後門と言います)があるのですが、ご法要後に涼しい顔で退出したお仲間が、裏手でひっくり返っていた事もよくありました。私は控え室に戻るまで、ギリギリ耐えてます・・。
足が痺れるのは神経と血管が押し付けられるためです。押し付けられることによって神経がうまく働かなくなり、血流も滞ることでさらに神経の働きを阻害します。感覚神経が麻痺すると足の感覚がなくなり、運動神経が麻痺すると足を思うように動かせなくなってしまうのです。
皆さまにも出来る痺れ対策としては、きついズボンやジーパンを避け、血流を阻害しないことと、足の親指同士を重ねるようにして、かかとの上にお尻を乗せず、親指の上にお尻を乗せることでもある程度防げます。それも痺れてきたら、「最後までなるべく動かない」ことです。正座の途中で耐えきれずモゾモゾと動くことが多いと思いますが、「モゾモゾ動きは、痺れが喜ぶ行為」と覚えておきましょう。でも、無理は禁物ですよ。
私がご法要をお勤めする際は、最初に「足は楽にして構いません」とお伝えしておりますのでご安心下さい。仏さまと穏やかに過ごす時間ですから、逆に無理すれば心穏やかにはいられませんからね。
丸儲けなんてとんでもない。税金のところでも触れていますが、困窮寺院が圧倒的に多いのが事実です。丸儲けしていれば、税務署が税務調査で飛んできますよ。
以前、全国に1万の寺を擁する浄土真宗本願寺派で統計調査が行われました。全寺院のうち43%が寺院年収300万円以下だそうです。「坊主丸儲け」レベルが仮に年収2000万円以上とするならば、その割合は6%ほど。また年収1000万~2000万円は13%です。寺院の格差が広がる傾向にあり、過疎地の村落の寺院では、おおかたが年収300万円以下です。このような傾向は浄土真宗本願寺派だけではありません。全国に1万4600カ寺を擁する日本最大の仏教宗派・曹洞宗でも同様だそうです。年間の寺院収入が300万円以下の寺院は42%、500万円以下は55%だそうです。
ですから、多くのご住職さんはお寺から給与を貰わず、兼業で公務員などに就かれる方がいるのです。
ちなみに三宝寺は専業です。これはいつどんな時でも皆さまと寄り添いたいとの創建時の願いにより守られていることで、お寺の収入の大半は皆さまに還元しております。それゆえに私たちの給与水準は低いです。それでも、お寺は儲かっていると勘違いして、投資などの営業電話が頻繁にあるんですよね・・。
「お坊さんって税金払っていないんでしょ」
これも日頃からよく言われることです。
結論としては、「税金は払っています」
まず、お坊さんの収入というのは、お寺から支払われる給与です。その際、皆さまと同じ税率で「所得税」「住民税」が引かれています。個人として払っていない税金は「固定資産税」です。なぜなら、お寺のある境内地及び建物は、個人所有ではなく宗教法人所有であり、お坊さんはそのお寺の「住み込み管理人」に過ぎないためです。
お寺の税金についてですが、免除されるものと免除されないものがあります。
<免除される税金>
・「法人税」(宗教活動の収入に限る)
・「固定資産税」
・「所得税」(宗教活動の収入に限る)
・「印紙税」(領収書の印紙税のみ)
・「相続税」(寺族以外の寄付・遺贈に限る)
国や都道府県、市区町村では、私たちが健康で文化的な生活を送るために、個人ではできない様々な仕事(公共サービス等)をしています。このような「公共サービス」や「公共施設」を提供するためには、多くの費用が必要になります。その費用をみんなで出し合って負担しているのが「税金」です。
国税庁ホームページより
宗教法人は宗教活動を目的とした「非営利団体」なので、法人税が課せられません。また古来からの伝統・慣習・文化を継承していく役割を持ち、保護し、維持していくことは公益性が認められており、そのためにかかる費用については優遇されているのです。
つまり、多くの公共施設や学校と同様にお寺などの宗教法人には、多くの方・地域に貢献をすることが義務づけられているのです。言い換えれば、お寺などの宗教施設は私利私欲のためにお金儲けをするための施設ではないということが絶対条件となるのです。
<免除されない税金>
上記説明にもあるように宗教活動の一環として認められず、収益事業と見なされたものは、全て課税対象となります。土地や駐車場を貸したり、製造・販売できる品などに関しては公平性の観点から、課税されるものが多いようです。また、相続税についても、寺族個人からの宗教法人への寄付(遺贈)は、寄付者の相続税負担を著しく軽減する目的とみなされ、個人同様に宗教法人に対して相続税を課税する法律があります。
当山を例にしますと、民間霊園として管理している部分は「収益事業」に該当するため、「法人税」「消費税」が課税されています。また、所属僧侶からお預かりした「源泉所得税」「住民税」を納付しています。
更に、過去の判例では、ペット法要のお布施も「収益事業」と見なされたため、会計処理は別に行っております。人以外は宗教行為ではないと言う判例は、悲しく思いますが・・。
あとは、一般企業と同じように「経費」の問題ですね。当然、お寺の経費とお坊さんの家計費は厳格に分けなければなりません。もし、お坊さんの生活で使用するものをお寺の経費で購入した場合、個人の所得(現物支給扱い)と見なし、「源泉徴収漏れ」(個人収入の過小申告)を指摘され、不納付加算税や延滞税といった追徴課税が課せられます。更に収入を計上せずにフトコロに入れてしまえば「業務上横領」の罪となってしまいます。昔から「坊主丸儲け」と言われてしまうのは、本来厳格に会計処理しなければならない部分で、残念なことに曖昧にしてまう方(俗に言うザル勘定)が極一部おられるためです。
当然、曖昧にしていれば税務署が黙っていませんよ。